2010年05月14日
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世田谷線渋滞の原因は何か

Written By: 川俣 晶連絡先

 少し前になってしまいますが、桜上水Confidentialさんよりメッセージを頂きました。

下高井戸にかつてあった世田谷線の開かずの踏切に対して

玉電時代に下高井戸駅に開かずの踏切が生じていた理由は、渋谷ー三軒茶屋間の軌道が車と併用だったことと、何より、玉電自身の三軒茶屋での分岐、合流によると推測します。渋谷の玉川線駅は、さすがに複線で、電車を4編成収容することが出来たように思いますが、そこで発車間隔を調整します。途中経路の渋滞もともかく、三軒茶屋の交差点では複線同士が路面で分岐、合流し、かつ、世田谷線側は246から右折で入線し、かつ、そこに駅がある。乗客の乗降を早くするため、中央扉を、この駅だけは開けるようになっていました。246側も、三軒茶屋から中里、上馬までは専用軌道としていました。

ところが、専用軌道は246の北側。こちらの線も、世田谷通り側の信号を待つ必要がありました。

さらに、茶沢通りも車の出入りがありますので、昭和40年代前半は大変なことになっていました。

玉電山下の坂で、山下駅に停車中の電車に後続電車のブレーキが間に合わず、追突した事故が何回かあったそうです。宮之阪駅が、瀧坂道の場所でなく、今の場所に移転したは、戦争末期の配電事情が悪く、坂道発進に苦労したことが原因のような気がしてきました。

 確かに三軒茶屋までの併用区間、特に三軒茶屋の分岐部分周辺にタイミングが狂いやすい要素が多く、一度タイミングが狂うと団子運転に陥りやすいのかもしれません。

 とすれば、古い路面電車の話や写真で、「後続の電車がすぐ近くまで来ていた」とか「列車が連続で来ている」というのは「待たずにすぐ次が来るぐらい潤沢に車両が運行されていた」のではなく、単にスケジュールが上手く調整できず、団子になってしまっただけという可能性も考えられます。

 そうすると、これは「空から日本をみてみよう」の東名高速の回でやっていたような、トンネルの前でブレーキをみんなが踏むと渋滞になるといった話と同じ種類の話になるのかもしれません。

 更に気づきましたが、「日本も鉄道はダイヤを秒単位で守る」のが基本であるならば、そういう輸送機関は歓迎されず、路面電車が廃止されてしまうわけですね。基本的に全線専用軌道の世田谷線にはあまり関係ない話ですが、荒川線は王子の併用区間が関係するかもしれません。

 更に言えば、世田谷線でおそらく唯一ダイヤを混乱させるボトルネックは若林の環七との交差ですが、三軒茶屋を前に西太子堂の駅が緩衝役になってダイヤを調整しやすくなっているのかもしれません。だから、いかに三軒茶屋と西太子堂の距離が詰まってもここに駅がなければならないわけです。

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